説教者:ラルフ・スミス牧師
創世記11:1~9
さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂きが天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。
ローマ8:14~17
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と呼びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
ヨハネ14:8~17
ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、またあなたがたのうちにおられるようになるのです。
キリスト教のカレンダーには、三つの非常に大切な日がある。イエス様の誕生をお祝いするクリスマス、イエス様の十字架と復活をお祝いするイースター、イースターの五十日後に御霊が与えられたことを覚えて神様に感謝するペンテコステである。
イエス様が十字架上で死んでくださったことによって、アダムの罪から来る罪と死の問題が解決された。イエス様が、罪に対して死に対して勝利を得てよみがえったので、創世記11章の人類がバラバラにされた罪は、ペンテコステで聖霊が与えられたことによって、新しい一致が与えられ、新しい人類となった。
ペテロたちにとって、これは大変わかりにくいことだった。だからペンテコステで御霊が与えられてからも、約十年間は異邦人にみことばを伝えていなかった。弟子たちはイエス様に「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(28:19a)」と命じられていたのだが、異邦人のところに行かなかった。
ペテロが初めてはっきりと異邦人に福音を伝えたのは使徒の働き10章だった。異邦人の上にも御霊が降ったのを見て、異邦人もユダヤ人と同じように主イエス・キリストのからだに属することがわかったので、ペテロは異邦人にバプテスマを授けた。
バベルの塔のさばきは人類をバラバラにするものだったが、アダムの罪によって人類が二つに分かれたと言うこともできる。蛇の子孫と女の子孫である。蛇の子孫ばかりが増えて、全世界が蛇の子孫で満ちていたので、神様は洪水を与えて大きなさばきを行なって、女の子孫であるノアたちを救い出して新しい人類がスタートした。
ところが、新しい人類がスタートしたばかりなのに、ニムロデが神に逆らうように人類を導いたので、神様が別の形でさばかなければならなかった。神様が人類のことばを混乱させることによって人類を散らしたので、人類の一致が取り除かれた。
イエス様によって私たちには新しい一致が与えられた。御父から御霊が与えられて、教会の上に注ぎ出してくださった。ペンテコステの日に御霊がいろいろなことばを話させてくださったので、人類はまた一つのことば、一つの心、一つの信仰を持つことができるようになった。私たちはペンテコステの日にそのことを記念する。
ペテロの時代のユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人が救われても、異邦人をキリストのからだとして受け入れないで、一緒に食事もしなかった。ペテロがガラテヤに行ったときも、彼らに影響を受けて、まるでキリストのからだが二つに分かれているような行動をとってしまった。異邦人と食事をしていたのに、割礼派のユダヤ人クリスチャンが来ると、彼らを恐れて異邦人から身を引いて離れて行ってしまったのである(ガラテヤ2章)。これはイエス様の十字架の意味も否定するし、ペンテコステの祝福も否定する。
だからパウロはガラテヤの教会に御霊の話をしたのである。御霊が与えられた私たちは、主イエス・キリストにある一つのからだである。
私たちはペンテコステの時に新しい人類であることをお祝いする。
毎週の聖餐式の時にもそれを注意深く守っている。私たちの教会の教会員でなくてもバプテスマを受けた人は一緒に聖餐を受けることができる。キリストのからだが一つであるからだ。
今日は久しぶりに一緒にお昼の食事をしてペンテコステを祝い、神様が与えてくださった祝福を喜ぶことができる。
そのことを感謝して聖餐式を受ける。
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