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「しもべの姿」ピリピ1:27~2:13

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ1:27~2:13

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何ことも利己的な思いやむな栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、

神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、

それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、

すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、

天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が

「イエス・キリストは主です」と告白して、

父なる神に栄光を帰するためです。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。神はみこころのままにあなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

ピリピ人への手紙1:27~2:18までは一つの段落である。

「御国の国籍を持つ者として福音にふさわしい生活をしなさい」と解釈を入れて読んだ方がポイントが深くわかる。私たちが御国の国籍を持っている者であるということを前提として、福音にふさわしく歩む。ピリピ人への手紙2章でパウロは福音について説明している。



キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、(2:6)

先週「キリストは神の似姿であられるので、神としてのあり方を奪い取ることを考えず」と翻訳しなおして説明した。ここでパウロは御子が人間となったことを強調しているのではなく、メシアであるイエス様が何をしてくださったかを説明している。人間となってくださったイエス様はアダムのようにサタンに試された。アダムはサタンに誘惑されて神と等しくなりたくて善と悪の知識の木の実を食べてしまった。つまり祝福を神様から奪い取ってしまった。しかしイエス様は悪魔に誘惑された時にそれを奪い取ることをせずに、神様に従って、ゆだねて歩んでくださった。アダムとイエス様の対比はここにある。これが福音の根本的なところである。ローマ人への手紙5章で、パウロはアダムの不従順とキリストの従順について対比している。イエス様は私たちを罪から救うために神様に完全従われた。

完全な神でありながら人となってくださったイエス様は、神と等しい祝福を人間として奪い取ることをせずに、へりくだった心をもって神を愛して神に従って歩んでくださった。これがピリピ人への手紙にあるイエス様とアダムの対比である。



ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(2:7)

「しもべの姿」はアダムとイエス様の対比ではなくイザヤ書の引用である。イザヤ40章から53章まではヤハウェのしもべの話である。

イザヤは紀元前740年頃から700年頃まで40~50年ほどの間、エルサレムとユダの王たちに預言した預言者である。さばきが来るという預言もしたが、救いが来る、メシアが来る、という預言もした。ヤハウェのしもべについて一番目立つのはイザヤ53章である。皮肉なことにユダヤ人はこの箇所をあまりよく知らない。彼らにとってイザヤ53章とイエス様のつながりはピンとこないようだ。しかしクリスチャンはこのつながりをよく知っている。ヘンデルのメサイヤもにも出てくるし、聖書を学ぶときによくこの箇所が出て来るからだ。イザヤ53章は詩であるが、その詩は52章13節から始まっている。



【イザヤ52:13】見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

神様のしもべは十字架の死によって苦しむが、神様はよみがえらせて祝福を与えてくださる。イザヤ53章の詩は、その栄光、祝福、栄えから始まる。

「わたしのしもべは栄える。」は知恵をもって栄えるというニュアンスもある。このしもべは高められて上げられて、きわめて高くなるとイザヤが預言している。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。ピリピ2:7b~11このピリピの箇所もイザヤ書と同じことを表現していると思う。



【イザヤ52:14】多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。

14節はそれまでとは急に雰囲気が変わる。イザヤはイエス様が受けた苦しみを具体的に話している。イエス様が逮捕されたときに、祭司たちの家に連れて行かれて一晩中裁判を受けて、その間に顔をぶたれたりして苦しめられた。それでイエス様の顔が膨らんで血だらけになっている。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。(イザヤ50:6)」このように書かれている通りである。イエス様を苦しめることについて、イザヤ書は福音書よりも詳しい。



【イザヤ52:15】そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。

・血をふりまく

「血」はヘブル語にはない。ただ「振りまく」と書かれているだけである。そしてこの「振りまく」はレビ記の中で祭司たちが血を振りかけるときに使われていることばである。イエス様が祭司として罪を洗いきよめたから、訳す人が解釈して血を入れたのだと思う。

・王たちは口をつぐむ。…

イエス様は苦しめられて、祭司のように自分の血を振りかける。イエス様は私たちの罪のために苦しめられた。ユダヤ人はイエス様を見ても尊敬することはなかった。むしろ神に捨てられたと思い、神様に苦しめられていると思っていた。しイエス様は私たちの罪のために苦しめられ、罪のために死んでくださった。私たちは迷った羊のようであるが、イエス様は羊のように静かにおとなしく私たちの罪のために死んでくださった。私たちは迷う羊で、世の罪を取り除く神の子羊である。バプテスマのヨハネのメッセージはある意味でここにある。



【イザヤ53:12】それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦利品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。

・多くの人を彼に分け与え

この日本語の訳はとても良いと思う。イエス様が十字架上で死んでくださったことによって、神様は多くの人たちをイエス様に分け与えてくださった。神がイエス様に与えた者の中に私たちも含まれている。

・自分のいのちを死に明け渡し

これは「ご自分を空しくして、(ピリピ2:7)」につながる。

・彼は多くの人の罪を負い、…

パウロはピリピ人への手紙で、イザヤ53章のヤハウェのしもべを指して、イエス様がこのしもべを成就するお方であると言っている。これが福音のメッセージである。主イエス・キリストのような思いを抱いて、自分のことだけではなく、他の人のことも考え、大切に思って十字架にかかってくださった。パウロはピリピの教会にこの心をもって歩むように勧めている。



私たちはあまりにも十字架の話に慣れてしまっているので、ここで新鮮な驚きはしないかもしれないが、第一コリントによると、十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことなのである。(1コリント1:23)

ユダヤ人はイザヤ53章を分かっていないし、彼らのメシアのイメージはイエス様と全くちがう。ユダヤ人のメシアのイメージは、栄える、力ある、ダビデのような偉大な王である。ダビデのように王国を作り上げ、小さいグループでもギデオンのようにローマ帝国と戦って勝利を得るのがメシアだと思っている。ところがイエス様はユダヤ人のリーダーたちに犯罪者としてさばかれて、ローマ帝国に引き渡されてしまった。ユダヤ人たちは、リーダーたちに犯罪者としてさばかれたり、ローマ帝国に死刑にされるイエス様はメシアではないと思っていた。だからユダヤ人たちにとって福音はつまずきなのである。

ギリシャ人(異邦人)にとって、福音は愚かに感じる。ギリシャ人にとっては体はすべての問題の源なので、体がなければ解放されると思っている。彼らにとって体の復活はいらない。体がなければお腹はすかないし、けがもしないし、ぶたれても感じない。ギリシャ人が考える救いは体からの解放なのである。ところが、イエス様は復活した。イエス様を信じればあなたも復活して永遠のいのちを受けるという福音のメッセージは彼らには救いにはならないのである。そしてピリピの教会の人たちもローマの国籍を持つ異邦人がほとんどである。ローマ帝国の国籍をもっているピリピの人にとって、ローマ帝国に負けて死刑にされた救い主は信じ難い。自分をローマ帝国から救い出すことができなかったのに、なぜこの人が王の王、主の主、私たちを永遠に救うことができるのか。



【第一コリント1:22〜24】ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

ピリピ人への手紙とどういう関係かというと、このコリントの箇所は、福音にふさわしく歩むことは、この世の知恵と逆の歩み方であることを教えてくれる。ローマの中でへりくだった心をもって、人を自分より大切だと思うことは愚かなことだった。自分が偉いことを服において表して自慢することの方が優れていると思われていた。それを見せることが彼らの知恵だった。ユダヤ人もパリサイ人もサドカイ人もその影響を受けてしまっていた。献金するときに自分の前でラッパを吹くのはローマ的な自己満足の歩み方でる。へりくだった心をもって左手がしていることを右手に知られないような働き方をイエス様は教えている。それはこの世の知恵とは全然ちがう。

食べ過ぎないとか気を付けることなど、この世の知恵と聖書の教えが重なっていることもあるが、へりくだった心をもって他の人を自分より大切にして、十字架を何よりも大切にするのはこの世の歩み方ではない。

主イエス・キリストを礼拝し、続けてイエス様に従って歩むなら、ピリピの教会は迫害される。その生き方をやめるのがこの世の知恵である。偶像を礼拝すれば迫害されない。

私たちはこのような迫害は受けていないが、実際に今このような迫害を受けている兄弟たちのために祈るべきである。

そして私たちが福音を中心にして毎日の生活を送っているかどうか、パウロは私たちに訴える。

イエス様の従順はユダヤ人にとってつまずきであるが、イスラム教にとってもつまずきである。彼らは理解して信じて愛をもって従うのではなく、単に服従していけばよいだけで、愛の話もない。イエス様は御父を愛して、御父を喜ばせるために完全に御父に従った。福音の服従は信仰によるのでる。

イエス様は私たちに模範を示して、正しい生き方を示してくださった。

イスラム教にとっての模範は、たたかって勝利を得て自慢して自分が偉いことを見せて、まるで昔のユダヤ人のような考え方である。クリスチャンではない周りの社会で自分の素晴らしさを見せなければ、選挙で選ばれないとか、ハリウッドで成功できないとか、ビジネスにおいて尊敬されないことがあるかもしれない。聖書とのちがいはへりくだった心をもって歩むことにあると思う。

主イエス・キリストを模範として、へりくだった心をもって、他の人を自分より大切だと思って福音にふさわしく歩む。パウロはこのように励ましてくれる。そのことを覚えて聖餐式を受ける。




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