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「父なる神に栄光を帰する」ピリピ1:27~2:11

説教者:ラルフ・スミス牧師



ピリピ1:27~2:11

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何ごとも利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、

神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、

それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、

すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、

天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が

「イエス・キリストは主です」と告白して、

父なる神に栄光を帰するためです。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。神はみこころのままにあなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。



以前説明した通り、ピリピ2:6〜11は詩である。歴史の始めから終りまでの聖書箇所を含む深い詩である。



キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、(2:6)

今日の箇所は、受肉について書いてあるというよりも受肉を前提にして書かれている。イエス様は神と等しい状態を奪い取ることを考えなかった。イエス様はアダムとは違う。その対比がここにある。エデンの園の中でアダムは善と悪の木の実を奪った。取って食べてはならないという命令は一時的で、アダムとエバが成長したら与えられるはずだった。しかし二人は待たないで奪い取って祝福を自分の手にしようとした。しかしイエス様は奪いとることをしないでむしろ服従した。受肉した神であるイエス様は完全な人間でありながら最高の祝福を奪い取ることをしないで逆に神様に従って神様のみこころを行った。

イエス様の従い方を覚えてほしい。心から神を愛し、神の命令を喜んで、すべてのことにおいて御父を喜ばせる。これがイエス様の従い方である。単に命令が与えられたので従うのではない。イエス様は愛をもって信仰をもって従い、心から天の父を喜ばせていた。

アダムはエデンの園にいて、周りは神の愛に満ちていたのに、神の愛を信じないで神様に逆らって奪い取った。

イエス様は荒野の中でサタンの誘惑を受けても神を信じて従った。



この対比がこの詩の前提とされている。いつかこの詩を歌うことができたらいいと思う。人間が創造された時を思い出しながら、イエス様について歌う詩である。

受肉が前提である。イエス様は人間と同じようになられた。

ジョン・ミルトンが描いた「失楽園」には、アダムが罪を犯したからイエス様が受肉して人間を罪から救ったのだから、罪を犯して良かったのか、と問いかける部分がある。そのような「罪を犯したから祝福を得た」という考え方は昔から教会の中にもあったがそれは聖書的ではない。アダムが罪を犯さなかったとしても、御子は受肉したはずだ。創造のはじめから御子なる神が受肉して神と人が一つになるのが神様のご計画であった。だからアダムが罪を犯してよかったという考え方はない。天において人類は御子の妻となり、天のエルサレムで永遠の復活の祝福をいただくことは神様の最初からのご計画である。

御子なる主イエス・キリストが完全な人間となって心を尽くして神を愛して、十字架の死にまで従った。

ピリピの人たちはローマ帝国の国籍を持っているので、死刑になったとしても十字架にかけられることはない。十字架の刑は奴隷などローマ帝国の国籍をもっていない人たちの処刑で一番恥ずかしくて拷問を含むやり方である。イエス様はそのような十字架にまで神様に従った。

神に逆らったアダムの子孫として私たちが受けるべきさばきをイエス様が代わりに受けてくださった。



ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(2:7)

しもべの姿はイザヤ53章を指している。イザヤ52:12~53章の終わりまではイエス様が十字架上で私たちの罪のために死んでくださったことを預言している。イエス様がこの世に生まれて十字架上で死んでくださる前に、ユダヤ人にはこの意味が分からなかった。十字架上でイエス様が死んでくださった時点でも弟子たちはその意味が分からなかった。十字架を前にして「ああ、イザヤ53章に預言されている通りだ」と考えなかった。復活した後でもすぐにはわからなかった。イエス様が復活したことを女性たちから聞いても、弟子たちは信じなかった。

ルカ24章に2回も書いてあるが、イエス様は弟子たちの心を開いて、旧約聖書の預言を理解できるように教えてくださった。それで旧約聖書の預言はイエス様について書かれていて、イエス様は本当にメシアであることが弟子たちにわかった。それも旧約聖書のメシアであって、自分たちが想像していたようなメシアではないことを、弟子たちにやっとわかった。イエス様はご自分を低くして、十字架の死にまで従われた。



それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。(2:9)

【イザヤ52:13】見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

イザヤは神様がイエス様を高く上げたと書いている。最終的にヤハウェのしもべは栄えて高く上げられて、それから十字架の話をする。パウロは十字架の話をしてからイザヤの預言を受けて「それゆえ」と言っている。

イエス様とアダムとの対比は創世記3章から話して、イエス様が十字架上で私たちの罪のために死んでくださったことはイザヤ53章と福音書から話している。これはパウロたちにとって過去の話である。

それゆえ神様がイエス様を高く上げられる。十字架の次にイエス様にすべての名にまさる名が与えられる。復活や昇天を飛ばして、イエス様が神の右の座にすわって、すべての名にまさる名を与えられたとパウロは言う。

与えられたのは過去形で、イエス様は復活して昇天して、神の右の座にすわって主ともキリストともなった。復活した時点でイエス様にはすでに権威が与えられているような言い方をする。天においても、地においても一切の権威が与えられている(マタイ28章)。黙示録で長くこのプロセスを説明しているが、復活して昇天してイエス様が神の右の座についた時点で、一切の権威が与えられていることは明白にされていはいない。なぜならエルサレムに神殿があり、エルサレムの神殿のリーダーたちがイエス様について神を冒涜したと証言し、イエス様が死に至る罪であると偽証したからだ。

そしてこの人たちはイエス様が十字架にかけられるように働いた。エルサレムの神殿のリーダーたちがイエス様が十字架にかけられるようにしたのである。

エルサレムのユダヤ人たちは弟子たちと同じように神殿を素晴らしいと思っていた。エレミヤの時代の人々も、ここに神殿があって神様が住んでいてくださるから自分たちはさばかれないと思っていた。パウロの時代、このピリピ人への手紙を書いた62年のときもイスラエルの人たちはまだ神殿を誇りに思っていた。BC19年にヘロデ大王が建設し始めた神殿が64年にやっと完成してイスラエルもユダヤ人も神殿の完成を大喜びした。ユダヤ人たちは、神殿が完成されたのは神様が自分たちとともにいてくださる証明であると考えて、ローマ帝国に抵抗するようになった。64年から70年までの七年間のイスラエル人とローマ帝国は戦争のようになった。マタイ福音書24~25章、マルコ福音書13章、ルカ福音書21章でイエス様はこの神殿に対する神のさばきを預言した。そのさばきはユダヤ人が一番喜んでいる64年から始まった。それは同時に教会に対する試練でもあった。ローマ人はユダヤ人と一緒に教会を迫害し始めた。ピリピ人への手紙を受けている人たちは2年後に本格的な試練が始まる。イエス様を王として告白したために迫害される。このような詩を歌ったために迫害される。イエス様の名はすべての名にまさる名であると告白したために迫害される。

AD70年に神殿がさばかれたときに、イエス様は復活して昇天して、神の右の座にすわってすべてのものにまさる名が与えられたことが預言通り明白になった。これはピリピ人への手紙を受け取った人にとっては未来。私たちにとっては過去。



それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(2:10~11)

これはピリピの教会の人にとっても私たちにとっても未来である。すべての口が「イエス様は主である」と告白するのは未来で、最後のさばきの時である。アダムとの対比で始まった詩は神様のさばきの日まで歴史をところどころ話してイエス様への信仰を告白している。すべての舌がイエス様を告白するが、みんながイエス様を信じてその信仰を告白するとは限らない。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべての中にはサタンも悪霊もイエス様を信じない人たちも含まれている。しかし最後のさばきの日にだれもイエス様は主ではないと言う人はいないし、だれもイエス様に逆らうことはできない。最後のさばきの日に十字架でも復活でも昇天でもAD70年でも明白だったことを本格的にすべての舌が告白する。だれも否定できないほどに明白になる。それが私たちにとって未来である。そういう意味で私たちは最後のさばきの日を楽しみにしている。パウロはローマ8章で、すべての被造物がイエス様の栄光の表れを待っていると言う。そしてその日までは苦しむが、復活した神の妻である教会はキリストとともに現れて、すべての被造物が苦しみから解放されて、永遠の祝福、永遠の恵みの時代になる。そのことをこの詩の中で歌っている。

私たちの毎週の礼拝は創造の時を思い出す。二ケア信条を毎週告白して、アダムの子孫であることを思い出して罪の告白をして赦しを求める。十字架を信じる信仰を毎週告白して、イエスは主であることを歌ったり告白したりしている。

それは未来に向かっていて、未来を待ち望む信仰である。今私たちが行っている礼拝を通して待ち望んでいる未来が最終的に永遠に実現する。毎週の礼拝は、過去、現在、未来を含んで信仰を告白して、御子なるイエス様が永遠の救いを私たちに与えてくださる。そのことを覚えて聖餐をいただく。





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