説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ3:1〜3(青字はラルフ・スミス牧師独自の翻訳)
最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。
では、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためになります。
犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。
警戒しなさい。その犬どもを。警戒しなさい。悪を行うその者たちを。警戒しなさい。その割(かつ)を行うその者たちを。
神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。
彼らではなく、私たちこそ割礼の者です。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らないからです。
今日はピリピ3章から二つの言葉に注目して考えようと思う。一つは「割礼」。もう一つは「肉」である。
⚫️割礼
この箇所でも新約聖書全体でも割礼は大切な意味があるし、アブラハムのときから非常に大切な概念である。皆さんは割礼のストーリーを覚えていると思うが、アブラハムが七十五歳のときに神様が現れて次のような契約を結んでくださった。
【創世記12:1〜3】主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
アブラハムに多くの子孫が与えられて、すべての部族がアブラハムによって祝福されると約束してくださった。アブラハムは七十五歳でサラは十歳年下だったがアブラハムはその約束を信じた。しかしそれから二十年たっても子どもはいない。アブラハムとサラの女奴隷ハガルの間にイシュマエルが生まれていたが、サラの子どもは与えられていなかった。
【創世記17:1〜14】さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」
アブラムはひれ伏した。神は彼にこう告げられた。「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」
アブラハムが九十九歳の時に再び神様が現れて、契約を結び、そのしるしとして割礼を受けるように命じた。割礼によって包皮を切って捨てることには「私には子どもを生む力も資格もない」という意味がある。割礼によってアブラハムはそのことを告白する。子とは神様がアダムとエバに約束してくださった約束の子のことである。アダムとエバの子孫が蛇に対して勝利を得る。神を信じる者はその約束の子をみんな待ち望んでいる。アブラハムもその子を待ち望んでいたが、彼自身にはその子の父親になる力も資格もないことをこの儀式によって告白している。アブラハムのあとの時代もイスラエルの民はみんな八日目に割礼を受ける。それは彼らがアブラハムのストーリーを覚えて、アブラハムに子どもを生む力も資格もなかったように自分たちもそうであるという認識をもって歩むように訓練を与えているのである。
皮肉なことに、イエス様の時代になると、イスラエル人たちは割礼を誇りにしてしまっていた。子を生む力も資格もないことを告白する儀式なのに、自分たちが偉くて特別であるというように割礼の意味を完全に曲げてしまった。
【創世記17:15~17】また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
神様はサラを祝福し、男の子を与えると言う。しかしアブラハムは、百歳と九十歳の夫婦に子どもが生まれるだろうか、と言って笑った。でも本当に神様に言われた通りにアブラハムが百歳の時にイサクが与えられた。イサクという名前は「笑う」という意味である。アブラハムとサラは神の約束は確かであると信じて歩んだ。
⚫️肉
割礼は包皮の肉を切って捨てる。肉という概念はもともと神様がアダムと女を作った時から始まる。古い契約は肉の契約で、新しい契約は御霊の契約という言い方ができると思う。堕落の前にアダムは肉として創造されて肉のからだが与えられたことに何も悪い意味はなかった。アダムは神の御姿として創造された神の子だった。
・弱さ
しかし神の子である肉のアダムは弱い。食べなければ死ぬし飲まなければ死ぬ。堕落前は死はなかったし病気もなかったが、からだはいろいろな意味において弱いものだった。
・未熟
アダムは創造されたとき裸だった。裸はきよいことを表しているのではなく、未熟を表している。そしてアダムはそのまま何千年も裸でいるわけではなく、成長して衣が与えられて、いろいろな意味において栄光が与えられるはずだった。
・依存
アダムは依存しなければならない者だった。もちろんアダムは神様に依存して生きている。そしてこれはアダムにとって辛いことではなかった。
アダムはエバに依存して生きる。アダムが一人でいるのは良くない。そう言って神様はアダムの骨からエバを造り上げてアダムのところに連れて来た。エバはアダムの助けとなった。お互いに依存し合って、お互いに助け合って生きるように、神様は最初の男と女を創造してくださった。
そして他の被造物にも依存しなければならない。植物、水など、すべて被造物である。アダムは他の被造物から独立した偉い存在ではなくて、それらに依存して生きるものだった。
アダムは弱くで未熟で、依存して生きなければならなかったが、これは全て良いことであった。アダムは自分の状態を見て悲しんだりはしなかったが、蛇はそれを見て見下した。そして人類が自分より偉くなるのが嫌だった。蛇は自分に最高の祝福を与えてくれなかったと言って神様を恨んでエバに話しかけている。だからエバを誘惑したとき、この木の実を食べると神のようになるから、神様はあなたに最高の祝福を与えようとしないで善悪の知識の木の実を食べることを禁じた、と言っていた。アダムとエバも神に対してサタンと同じような恨みを持つように誘惑した。アダムとエバが罪を犯したとき、肉であるという物質的な意味は変わらないが、聖書の中の肉という意味は変わった。ガラテヤ5章には肉のわざということばと肉のわざのリストがある。
【ガラテヤ5:19~21】肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
肉のわざという意味で堕落後に人間の心が変わって肉となった。カインを思い出す。カインは蛇のように自分の立場について神様を恨んでいた。本当なら長男であるカインは自分の弟に頼んで動物をもらっていけにえをささげればよかったのに、自分が弱い者であることを認めたくなかったので自分の力を誇ってしまった。神の似姿も嫌だし、自分の弱さも嫌だった。それで嘘であっても何とかして自分の力を主張しようとした。それでカインは暴力を使って自分の弟を殺した。
ところがカインは神様にさばかれても素直に悔い改めず、神のさばきを受けなかった。そして続けて神様に逆らった。カインは未熟であることが嫌だったので自分の町を作った。力あるすごい者になろうとした。暴力をふるって自分の兄弟たちをしもべにして町を作った。バベルの塔を作ったニムロデもカインと同じように神に対して逆らう者だった。エジプトのファラオも人を奴隷にして自分の栄光を求めていた。神に逆らう者は自分の弱さを認めない。未熟だからこそ神からの栄光を求めるべきなのにそれを待つことができなかった。それで無理矢理取る。依存も嫌で神様から独立して神なしで生きようとした。自分の弱さを認めて神様に力を求めるのではなくて、自分で力を主張する。自分が未熟であることを認めて神様により頼んで祝福を待つことをしないで無理やり取る。出エジプト記15章の歌の中にこのような傲慢なファラオの心が書いてある。
【出エジプト記15:9】敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』
ヘンデルは「エジプトのイスラエル人」というオラトリオの中でこれを歌にしてテノールが独唱している。カイン、ニムロデ、ファラオの心を表している。堕落後の肉の思いはこのような形で非常によく現れる。肉のわざは堕落した人間の心を表している。
ガラテヤ5章の肉のわざはカイン、ファラオ、ニムロデがどのような心で歩んでいるかをよく表すし、私たち罪人の心の深いところを表している。パウロは私たちの方こそ割礼の者であると言う。私たちは肉に頼らない。肉のわざを捨てて、主イエス・キリストの御霊によって礼拝する。またガラテヤ5章では御霊の思いと肉のわざの対比をしている。
【ガラテヤ5:16~17】私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
私たちの心の中には肉と御霊のたたかいがある。パウロは本当の意味での心の割礼として、私たちは肉の行いを捨てて御霊によって歩むようにと話している。
新しい契約において、肉は非常に強調される概念である。私たちの新改訳2017という聖書は、大事なところで肉ということばを使っていない。新共同訳にはそれがある。
【ヨハネの福音書1:1、14】初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
「ことばは人となって」とあるが、本当は「ことばは肉となって」である。イエス様はアダムと同じような者になった。神であり、肉であることばは肉となった、というのが原語の文字通りの訳である。イエス様はアダムと同じようにからだを持つ者になったということだ。イエス様は堕落前のアダムと同じように神の子で、同じように弱かった。お腹がすくし、疲れるし、寝なければならない。福音書の色々なストーリーに出て来る通りである。イエス様はこのように弱い者になってくださった。しかしイエス様は自分の弱さを見下さないで、神様により頼んで力を得て生きるようにへりくだった信仰をもって歩んだ。イエス様は未熟だった。先ほどのヨハネ1:14で私たちはイエス様の栄光を見たと書いてあるが、ローマ帝国の中でユダヤ人は見下されるし、ユダヤ人はナザレを見下すし、大工であるイエス様は服が一つしかなくて寝る場所もなかった。その意味でこの世的な栄光は何もなかった。イエス様が未熟と言ったのは、いつかその栄光が与えられる時が来るからである。イエス様は神様を待って、神様により頼んだ。自分で栄光を奪い取るようなことはしない。
【マタイ26:52~54】そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
イエス様は奇跡を行うことができる。イエス様が父に頼めば数えきれないほどの軍が来るのだ。しかしイエス様は神様が栄光を与えてくださるのを待っている。無理矢理取ったりしない。イエス様は食べ物に依存する存在である。他の人たちに依存して弟子たちと一緒に働いた。福音書の中にイエス様と一緒に働いた女性たちの話が出て来る。この女性たちはイエス様の毎日の食事を作り、生活を支えていた。イエス様は女性たちの助けに依存していた。マグダラのマリヤはその一人だが、八人くらいの女性たちの名前が出て来る。
イエス様は何よりも天の父に依存してより頼んで歩んだ。サタンに石をパンに変えるように誘惑されてもそれをしない。できないわけではなく、しないのだ。イエス様は神様により頼んで正しく歩む肉であった。肉であるイエス様は十字架上で古い契約を完全に守っている人間として、私たちの罪のために十字架上で死んでくださった。肉でなければ死ぬことはできなかった。イエス様はアダムの子孫である。その状態を見下して反対したりすることをしなかった。自分がどんなに力があるかを見せたりしないで、大工として働いてへりくだって御言葉を教えた。奇跡を行うがそれは自分のためではなく、自分がメシアであることをイスラエルに証明して祝福を与えるためであった。イエス様が十字架上で死んでよみがえったときに、四十日間弟子たちとともに肉のまま一緒にいてくださった。栄光を表したりはしていない。黙示録1章で、イエス様が復活して昇天した後で、ご自分をヨハネに表したが、ヨハネは耐えられなくて死人のように倒れてしまった。
イエス様は今は栄光があって、弱い状態ではなくて力がある。御父と御霊とともに喜びに満ちて天で支配しておられる。しかしイエス様は今も未熟な面がある。それは歴史を導いて、ご自分の花嫁である教会を作っていくプロセスが続いていることである。歴史が終わってイエス様が再臨してさばきを行ったときに、私たちはみんな復活したからだを与えられてイエス様の花嫁が完成する。そのときにイエス様と花嫁は結婚して、お祝いをする。その様子が黙示録にある。それでイエス様は完全に栄光を与えられて、イエス様ご自身と妻である教会は永遠の栄光、永遠の祝福となる。そのときにまでイエス様は御霊を通して今も働いてくださって、教会を作っている。その間、イエス様は私たちに依存している。イエス様は天から語ったりしない。私たちを通して働く。私たちがイエス様のしもべとして御霊の力をもって福音を伝える。そのようにしてイエス様とともに働くことによって歴史の中で教会が完成する。神の栄光が完全にイエス様を通して完成するときが来る。イエス様は肉となってくださった。今は神の右の座にすわって全世界を支配しているが、まだ完成していない。私たちには、御霊によってキリストとともに働くという素晴らしい特権と祝福が与えられている。パウロは私たちこそ割礼の者であると言う。私たちこそアブラハムの子孫である。私たちこそ堕落後の悪い意味での肉から解放されて十字架によって救いが与えられた者である。私たちは御霊によって礼拝し、肉に頼らない者である。パウロは教会のあるべき姿を私たちに話している。
毎週の聖餐のときに、私たちは肉に対して戦って肉を捨て、罪を捨て、心をあらたにして、主イエス・キリストに従って生きる心をあらたにする。自分を生きたそなえものとする祈りを神にささげ、礼拝で繰り返し行い、毎日の生活で行う。そのようにして御霊によって礼拝する心をあらたにする。
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