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「主イエスの名」コロサイ3:16~17

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:16~17

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべて主イエスの名において行いなさい。

先週は特に感謝を一緒に考えた。パウロが、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人の三つの文明をもって私たちに教えてくれている。パウロはユダヤ人の中のユダヤ人でパリサイ人なので、みことばを非常によく知っていた。ユダヤ人の文化や文明はパウロの深いところに入っている。

パウロがギリシア人であることはそんなに深く知られていないかもしれない。パウロはタルソで育ったが、タルソはギリシャ哲学の町で有名だった。パウロは天幕を作りながら哲学者と話したり、アテネでギリシャ哲学のことをよく知っている者として説教したりしていた。

同時にパウロはローマ人でローマ国籍を持っていた。ローマ文化の中で育ちローマのことをよく知っていた。だから、パウロは、ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人として手紙を書いたので、この背景を覚えて手紙を読まなければならないと思う。コロサイ人への手紙の中にも哲学の話は出てくる。


今日の箇所でパウロは「主イエス」というが、ローマ帝国では「主」はカエサルである。私たちは「主イエス」という言い方に慣れているので、その言い方をあまり考えない危険性がある。例えば日本語の意訳として、ここを「天皇なるイエス」と訳すと、日本人は何か気づくだろう。しかし天皇(天の麗しいお方)はイエス様以外にはいない。イエス様はカエサル、イエス様はクリオス、イエス様のみが天の麗しいお方なのである。同じようにユダヤ人はパウロが「主イエス」と言うと、何かを感じるのである。


⚫️すべて主イエスの名において行いなさい。(コロサイ3:17b)

ギリシャ語のクリオスは、ヘブル語のヤハウェを翻訳したものである。イエス様について、当時の文化は少し複雑であるが、今日は「主イエスの名」について考えたい。

旧約時代の年三回の祭りは感謝に満ちている祭りとして与えられた。イスラエルがそれを正しく守らなかったのは残念なことであるが、イエス様の時代のパリサイ人はその感謝の制度を曲げてしまった。律法では宴会は貧しい人と分かち合うべきなのに、パリサイ人たちはギリシャやローマの影響を受けて、自分を招き返すことができる、同じような地位の人しか招かなかった。そしてほめられるために献金をし、自分に栄光を求めていた。

【ローマ13:8】だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。

ローマ帝国では、プレゼントをもらったらお返しをしなければいけない。しかしクリスチャンは何かをもらったら神に感謝してそれを正しく使う。イエス様もパウロも人にお返しはしなくてもよいと教えている。先週は感謝についてそのように学んだ。


旧約聖書の背景を考えるとき、まずモーセの十戒を思い出していただきたい。

第一戒:あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。(出エジプト20:3)

神を否定し、他の神々を礼拝してはいけない。契約を根本的に破る偶像礼拝を禁止する戒めである。

第二戒:あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:4~6)

何かの形を作って、それを通して本当の神を礼拝することを禁じている。礼拝における偶像礼拝と言えると思う。モーセがシナイ山に登っていた間に、アロンが金の子牛を作り、これがエジプトからイスラエルを救い出した神であると言って礼拝してしまった。この子牛を通して本当の神に近づこうとしてしまった。その行いはこの第二戒を破ったことになる。他の神々を偶像として礼拝することも含まれる。

第三戒:あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)

この戒めは話すことについての命令だと思ってしまうかもしれない。もちろん話すことも含まれるがそれが命令の中心ではない。神の名を「みだりにとなえてはならない」と訳されているが、ヘブル語では「みだりに運んではならない」という意味である。具体的な例を考えてみる。イスラエルの大祭司はヤハウェの名前を金の板に彫ってそれを額につける。大祭司は常に自分の額に神の名前をもっている。同時に大祭司の胸当てにイスラエルの部族を表す石がついている。大祭司は神の名前とイスラエルを持ち運んでいるかのようだ。大祭司の働きは、神の代表として、イスラエルの代表として礼拝を導くことである。つまり第三戒は生活における偶像礼拝を禁じる命令である。わかりにくいかもしれないが、モーセからダビデまでの歴史を思い出すと、偶像礼拝の問題は非常に大きかった。周りの国々の偶像を礼拝したので、神様はイスラエルをモアブに渡したり、ペリシテ人に渡したり、ダゴン、バアルの話もたくさん出てくる。第一戒を大いに破っていた時代だと言える。ダビデから預言者までは兄弟がお互いに対して戦って殺し合っている時代だった。ソロモンの息子の時代に北イスラエルと南ユダに分かれてしまった。北イスラエルは南ユダより人口が多く、経済的に栄えていた。北イスラエルのヤロブアムはダンとベテルに雄牛を作り、そこで礼拝させようとした。まるでアロンがシナイ山でやろうとした罪を肯定するような罪であった。本当の神に近づくのはエルサレムの神殿ではなくベテルとダンであると言って、偶像を通して本当の神に近づこうとした。これは第二戒を破る罪である。

BC722年に北イスラエルがアッシリアに捕囚され、BC586年にバビロンが捕囚されて奴隷になり、BC616年にエズラたちが神殿を建て直して、第一戒と第二戒を破ることはしなかった。バアルの問題はマラキなどの預言書に出てこないし、金の子牛の話も出てこない。マラキ書の中にあるのは生活における偶像礼拝である。人々は、王やリーダーたちには良い羊をあげるのに、神様に最も良いものをささげないで、目がわるい羊や足なえの羊をささげていた。

イエス様の時代にも偶像礼拝の話は出てこない。バアルも出てこない。一言でまとめると、イエス様のパリサイ人への訴えは「偽善者」。毎日の生活における偶像礼拝。自分は神の民だと言いながら神の民らしく歩まずに、偽っている。異邦人の間で神に冒涜を言う。このような偽りのリーダー、偽善者たちに、イエス様は訴えている。エズラたちが建てた神殿の時代もイエスさまの時代も生活における偶像礼拝の罪で、第三戒を破る罪だった。


旧約聖書の中で、神の名は天幕や神殿において表れている。天幕や神殿は神に近づく場所であり、神の名を置く場所である。そしてイスラエル全体が神の皆を置く場所である。

【民数記6:24~26】主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。

私たちの礼拝の最後に、アロンがイスラエルを祝福するときに使ったこのみことばを用いて皆さんを祝福する。

この祝福のみことばのあとにこのように続く。

【民数記6:27】アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。

三位一体の神がご自分の名を私たちに置いてくださる。それは私たちを祝福するためである。イスラエル全体は神の名を運んでいる民である。イスラエルが礼拝をささげるたびに、アロンが祝福のことばを言う。礼拝は神の名を高く上げることである。礼拝の中心は私たちの経験ではない。神の名を中心にして、神の名を語り、賛美する。神ご自身が中心である。

モーセの十戒の第三戒をよく表しているのはレビ記11章と申命記14章で、食べてはいけないものについての教えである。イスラエルは、毎日の生活において、神様の名についての信仰を、食べ物において表している。食べてはいけないものの中には、ネズミやゴキブリなど、禁止されなくても食べたくないものも入っているが、エビや馬のように美味しいものも含まれている。それらを食べずに牛や羊を食べるのは信仰告白なのである。食べてはいけないものは何かの形において、創世記三章の蛇と関係がある。そして食べてよいものはいけにえとしてささげる羊、牛、ヤギと何かの形で関係するものである。なぜ食べてはいけないのかというと、勝利がまだ与えられていないからである。食べてはいけないものは永遠に食べてはいけないのではない。エデンの園で、善悪の知識の木を食べてはいけないという命令は一時的なものだった。まだアダムとエバに善と悪の知識がなかったからである。食べてはいけないものは、女の子孫が蛇の頭を踏み砕くまで、信仰の望みをもって食べない。

イエス様は勝利を得たので、エビは勝利の食事で、今はもう食べて良い。

イスラエルは食べ物において信仰を表すはずだった。パリサイ人はそれものろいに変えてしまった。


神様の名を高く上げることは詩篇の中にたくさん出てくる。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。(ローマ15:9)」しかしパリサイ人たちは異邦人を見下して、熱心に福音を伝えたりしなかった。ペテロがコルネリオたちと一緒に食事をしたことをユダヤ人クリスチャンたちは責めた。しかし律法には異邦人と一緒に食事をしてはいけないという命令はない。ペンテコステの時からコルネリオと食事をした時まで約十年間、ペテロたちは異邦人に熱心に福音を伝えていなかった。伝えてはいけないとは思っていないだろう。でも、行ってすべての国々に福音を伝えて弟子とせよ、という命令はピンときていなかったのかもしれない。イエス様の時代のユダヤ人は福音を熱心に伝える心がなかった。神の名を高く上げて、正しく代表するということは、主イエス・キリストを知らない人をあわれみ、福音を熱心に伝える意味が含まれている。

パウロは個人一人一人は御霊の住まい、神の神殿であると言う。だからエルサレムに行かなくても神に近づくことができる。むしろ私たちの自分のからだが神殿であるので、正しく歩むことが神の名を運ぶことになる。

地域教会も神殿と呼ばれるので、神の名を正しく運び、表す。毎日の生活において神の名を正しく表すためにキリストにあって歩みなさい。

【コロサイ2:6】このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。

今日の箇所はすべてを強調して含む言い方である。ことばにおいても行いにおいても、何をするにしても、すべてのことをイエス様の名によって行う。私はイエス様の代表であるという認識を持つ。

そしてイエス様によって御父に感謝の祈りをささげる。イエス様の名によって祈りをささげることは特にヨハネに出てくる。当然だが、古い契約の中でイエスの名によって祈ることはない。イエス様が弟子たちに新しい祝福として祈りを教えてくださった。新しい祈りとは、例えば自分の御父への祈りを紙に書いて、最後にイエス様の名前を書いて御父に読むようなものである。自分がイエス様の代表であることを認識して祈るので、イエス様が求めないことは自分も求めない、という認識をもって祈る。

ピリピ書でパウロはどんなことでも祈って良いと言う。鍵をなくした時に見つかるように祈っても良い。

【ピリピ4:6】何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

しかし主の名によって祈ることの中に、イエス様がゲッセマネで祈ったことが含まれる。イエス様は、苦しい十字架を避けたいという思いを神様に祈った。でもイエス様は、自分の思いではなくあなたの御心がなるように、と祈ったのである。イエス様の名によって祈ることは、イエス様のように神の御心がなることを求めることである。主の祈りを地域教会として毎週祈っている。主の祈りは、御名があがめられますように、で始まる。新しい新改約2017年版では、御名が聖なるものとされますように(マタイ6:9b)、となっている。その方が翻訳としては正確だと思う。

主の祈りは神の名から始まる。祈りにおいても毎日の生活において神の御国を求めることは、神の名に対する正しい心を表す。御国が来るとは、具体的には神の御心が天で行われるように地でも行われることである。私たちは主の祈りでこのことを求めている。

神の名を聖なるものとして覚えて、神の御国を求めて、神の御心を行うことができるように真剣に祈る。

私たちの毎週の礼拝は、罪の告白から始まる。ダビデの罪の悔い改めのことばを使っているので、決して軽いものではない。思いにおいても言葉においても行いにおいても多くの罪を行なっていることを告白する。そして神の御心を毎日の生活において行う心をあらたにする。聖餐をいただく時、神は私たちを愛して、ご自分の子として受け入れて、認めてくださることを覚える。聖餐をいただくというのは、神の愛と恵みをいただくことである。そして礼拝が終わったら、御霊の力を与えられてそこから遣わされて、この世に福音を伝えて、神の栄光を表すことができるように求める。そのことを覚えて聖餐式を受ける。




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