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「奴隷と自由人」コロサイ3:17、22〜4:1

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:17、22〜4:1

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。

主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

今日の奴隷の箇所について、現代の注解書でパウロについて書く人たちは、みんな批判する。西洋人クリスチャンはみんな今日の箇所が嫌いである。何が問題かというと、パウロは奴隷制度がいけないことだとはっきり言わないし、クリスチャンの主人たちに今すぐ奴隷を解放しなさいと言わないことである。彼らは、パウロは奴隷制度に反対の立場ではないのか、と訴えている。

このように考える注解書の著者たちは、根本的な二つのことを理解していない。

一つは、聖書の中の奴隷についての教え。そしてもう一つは、パウロがこの箇所を通して何をしようとしているのか、ということについてである。


⚫️聖書の中の奴隷制度について。

奴隷についての聖書の教えは、深くて非常に大切である。

私たちの教会をよく知らないノンクリスチャンが初めて礼拝に来たら、この21世紀の日本に住んでいて奴隷を見たことのないクリスチャンの日本人が毎週奴隷について話していることを不思議に思うかもしれない。

【出エジプト20:2】わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

私たちが十戒を唱える時、毎週このように出エジプトの話をし、奴隷について語り、考えている。そのイメージは出エジプトにある。出エジプトのストーリーがモーセの十戒の土台である。十戒はストーリーに基づいている。神がイスラエルを奴隷の状態から救い出してくださった恵みと、彼らがその恵みに立って自由に生きるための教えである。

命令を守ることによって救いを得るのではなくて、救われた者に神が自由の道を教えてくださるということである。イスラエルが奴隷の家から連れ出されたストーリーを思い出して、聖書の奴隷についての教えを考えたいと思う。


出エジプトの初めのところを思い出してほしい。

【出エジプト1:1】さて、ヤコブとともに、それぞれ自分の家族を連れてエジプトに来た、イスラエルの息子たちの名は次のとおりである。…

最初にヤコブとヤコブの息子たちがエジプトに下った。そのときヨセフはすでにエジプトにいた。ヨセフもヨセフの兄弟もみんな死んだ。やがてヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった。これが出エジプト1:1~8までに書かれていることだが、この中に三回もヨセフの名前が出てくる。そしてここからヨセフを知らない王がイスラエルを奴隷にする話が始まる。最初にヨセフの名前が三回も出て来るのは、モーセが私たちにヨセフのストーリーを思い出して出エジプトを読みなさいと教えているからではないかと思う。ヨセフのストーリーとイスラエルのストーリーを一緒に考えると、三つの大切な平行しているところがある。


・ヨセフもエジプトに下ったイスラエルも祝福されたのでいじめられる。

末の息子のベニヤミンが生まれる前から、ヨセフがまだ小さい時から父ヤコブは兄たちよりもヨセフを愛し、ヨセフを特別に扱っていた。これは父の悪い偏見やひいきではなく、兄たちが非常に悪くてヨセフがとても良い子だったからだ。それで兄弟たちはヨセフを恨み、嫉妬して、そのためにヨセフは奴隷にされてしまった。

エジプトに下ったイスラエルが実を結んで増えていくと、ヨセフを知らないパロがそれを恐れた。この話を表面的に見ると、社会的な問題だろうと思うかもしれない。エジプト人は羊飼いが嫌いである。だから羊飼いが増えてしまうと社会の構造が変わってしまう。あるいは政治的な問題だろうと思うかもしれない。外国が攻めてきたときにイスラエル人が敵側についたらエジプトは戦争に負ける。このように書かれている注解書もあるのだが、じつは、出エジプト記の初めにイスラエルの人数が増えたと書かれているのは、明らかに創世記1:28と創世記9:1と7を指している。

【創世記1:28】神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

【創世記9:1、7】神はノアとその息子たちを祝福して彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。…」

あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ。

このアダムとノアに与えられた命令を、神が約束としてアブラハムに与えてくださった。アブラハムに空の星よりも多くの子孫が与えられ、祝福される。出エジプト1章のイスラエルは神に祝福されて、恵みを与えられた状態だった。それがパロの恐怖の源であった。単なる社会的、政治的な問題ではなかった。


・兄弟殺し(ヨセフとアベル)

ヨセフには少なくとも十人の兄弟がいて、ヨセフは正しく、兄たちは罪人である。兄たちにはそれが耐えられない。一緒にいればいるほど自分たちが嫌になる。ヨセフは兄たちが自分を拝むことを預言したのだが、兄たちはそれにも耐えられない。兄弟たちは正しいヨセフを憎んで、殺そうとする。

兄弟殺しは創世記の初めにあった。カインがアベルを殺したストーリーである。神様がアベルのささげ物に目を留め、カインのささげ物を受け入れなかったからだ。ただの兄弟喧嘩ではなく、蛇の子孫と女の子孫の戦いである。

【創世記3:15】わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はお前の頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ。

人類史は女の子孫と蛇の子孫の戦いの歴史である。カインがアベルを殺したのはその戦いの始まりだが、読む人は驚く。蛇の子孫は負けるという預言なのに、最初の戦いで女の子孫が負けた。創世記6章まで、蛇の子孫が勝つばかりだった。神様はノアの洪水によって再スタートしてノアとノアの家族だけが残った。しかしバベルの塔によってまた蛇の子孫が勝ったように見えた。それで神はアブラハムを選んで新しいスタートをした。アブラハムを通して女の子孫が勝利を得て、全世界に祝福が与えられるという約束が与えられた。アブラハムは飢饉によってエジプトに下り、パロはアブラハムの子孫を奪うつもりでサラを取ったが、神は守ってくださった。ペリシテに下った時にアビメレク王も女の子孫を奪うつもりでサラを取ったが、神が守ってくださった。

イサクの時代も繰り返しアビメレクが妻リベカを奪うが神が守ってくださった。

ヤコブはエサウから逃げてラバンのところに行った。ラバンも女の子孫をだめにしようとしたが神様が守ってくださった。

ヨセフは兄弟たちに殺された殺されそうになった時に神様が守ってくださったので殺されずに終わる。そしてヨセフは成功して祝福される。

出エジプトのストーリーも単にパロとイスラエルの話ではない。蛇の子孫であるパロが女の子孫であるアブラハムの子孫を攻撃しているストーリーである。パロはイスラエルの助産師に赤ちゃんが男だったら殺せと命令したが、この方法は助産師が主を恐れたためにうまくいかなかった。

神様はモーセを救ってパロの家に入れて、パロの娘に育てられたモーセがイスラエルをエジプトから救い出す。パロの陰謀はうまくいかない。イスラエルの人数は続けて増える。神はイスラエルを蛇の陰謀から守ってくださって、イスラエルは殺されなかった。ヨセフもイスラエルのストーリーも似ている。神の恵みは勝つ。創世記1章から6章までは神が負けるような話であったが、神はアブラハムを守ってくださった。イサクもヤコブもヨセフもイスラエルも守ってくださった。


・ヨセフとイスラエルの民

ヨセフは奴隷としても守られて、獄でも守られて、神様はヨセフをよみがえらせて、パロの右の座にすわらせて、ヨセフ自身だけではなく、国民(くにたみ)もヨセフの兄弟たちもみな救われた。ヨセフを通してアブラハムの約束が成就し始める。創世記37章の時点では、ヨセフの十人の兄弟は蛇の子孫だったが、創世記50章では悔い改めて救われて女の子孫に変わった。ヨセフの勝利は兄弟たちの救い、そして世界の救いに至る。祝福の成功、神の約束の勝利に終わったように見える。しかし出エジプト記のイスラエルのストーリーは残念ながらそうではなかった。

ヨセフはあんなに苦しめられても、どんな試練を受けても、神を信じ神とともに歩んだ。しかしイスラエルは神に忠実な民ではなかった。イスラエルは繰り返しぶつぶつ言う。どんな試練も嫌だ。パロとその軍勢が海の中に投げ込まれて、とんでもない奇跡的な救いが与えられたのに、その三日後に水がないとぶつぶつ言う。問題に対して答えは簡単だった。「パロの軍勢から私たちを救い出してくださったように、水を与えてこの試練から救い出してください。」と祈るべきだった。しかしイスラエルはエジプトに戻りたいと言った。奴隷の家から救い出されたのに、また奴隷の家に戻りたい。そのようなことが繰り返しあって、最終的に民数記14章で、イスラエルはヤコブの十人の息子のように、神に愛されている正しい者を殺そうとする。カインがアベルを殺したように、モーセ、アロン、ヨシュア、カレブを殺そうとする。神の民が蛇の子孫のようになっていた。それでこの世代は荒野の中で死ななければならなかった。

モーセもアロンも荒野の中で死んだので、荒野の中で死んだイスラエルが、だれ一人神に戻らなかったとは言わないが、イスラエルはとんでもない罪を犯してしまった。兄弟を殺そうとするカインとアベルのストーリーは、蛇の子孫と女の子孫との対立で、イエス様の十字架に終わる。



エジプトから救い出されたイスラエルのストーリーと、ヨセフのストーリーは似ている。兄弟に憎まれたヨセフとパロに憎まれたイスラエルのストーリーは似ている。兄弟に殺されそうになったヨセフと、パロに殺されそうになったイスラエルのストーリーは似ている。ヨセフはどんな試練にあっても神に忠実で神に祈り求めたが、荒野のイスラエルとは対比的である。救いを与えられたイスラエルは神を喜び従うことをしなかった。これが奴隷のストーリーの大切なポイントである。


エジプトから出たイスラエルの二代目の世代が神に従ってカナン人をさばいた。そして神の恵みによって感謝して歩んだ世代である。


その次の世代は、士師記の時代である。

【士師記2:10】その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。

出エジプト記の初めに、パロはヨセフを知らないと書かれていたが、士師記のこの世代は主を知らない。この世代は主を知らず、何をしたかというと、偶像礼拝である。偶像礼拝をしたら奴隷になった。これが士師記の中で繰り返し出てくる。偶像礼拝の結果から奴隷になる。

イスラエルがエジプトにいた時に偶像礼拝をしていたのでイスラエルは奴隷になった。ここはヨセフと違う部分である。イスラエルは神の祝福が与えられたのに、偶像礼拝をしてしまった。一方ヨセフはアベルのように正しくて、素晴らしい人だったので、奴隷になった。士師記の中で、奴隷になった民が繰り返し神に救いを求めて祈っている。祈ると神様は恵みをもってモーセのような人をもう一度与えてくださる。しばらくは忠実だが、またすぐに偶像礼拝に落ちてしまう。


⚫️パウロがこの箇所を通して教えようとしていること

【ヨハネ8:31~32】イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

イエス様のことばにとどまるなら自由である。しかしこのことばを聞いたユダヤ人たちは、今までだれの奴隷になったこともない、と驚くべきことを言う。この人たちは、エジプトの話、モーセの十戒、アッシリア、バビロンの時代を忘れたのか。今もローマ帝国の下にいて大変なことになっているではないか。この人たちはイエス様に怒って、8章が終わるまでにイエス様を殺そうとする。カインとアベル、ヨセフと兄弟たち、パロとイスラエル、蛇の子孫と女の子孫の話は繰り返されている。奴隷の状態は罪から来る。罪を犯す者は罪の奴隷であるとイエス様は言う。

セネカというローマ人の哲学者がいた。BC4年~AD64年まで生きた人で、時代はパウロの人生と重なる。セネカは著書の中で奴隷の主人に対して、自分たちの欲を満たすために奴隷を利用してはいけないと訴えている。「奴隷たちの方があなたの主人で、あなたは自分の欲の奴隷である。つまりあなたは自分の奴隷の奴隷である。」と言う。クリスチャンではないセネカには解決はないが、クリスチャンでない人でも自分の欲を通して奴隷を見ている。パウロは何をしているのかと言うと、奴隷たちに自由の道を教えている。自由の出発は、主イエス・キリストをこころから信じて歩むことである。社会的な解決や政治的な解決が出発ではない。出発は信仰、心、正しい歩みにほかならない。パウロはこの人たちに本当の意味での自由を教えて、キリストに目を留めるように話している。

【第一コリント7:22】主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召されたものはキリストに属する奴隷だからです。

奴隷であるか自由であるかは、キリストとの関係においてである。キリストを信じるのは自由人で、キリストの奴隷になることである。それが自由である。パウロがコロサイの手紙の中で話しているのは、コロサイの町にいる奴隷は、本当の意味での自由を持つことができるということだ。そしてパウロが主人たちに教えることは、主人たちは奴隷を単なる財産として見てはいけないということだ。奴隷の定義は、じつはそれなのである。奴隷は売買できる。奴隷は物。ローマ帝国の奴隷でいるよりも、アッシリアやバビロンで奴隷であったほうがよかった。その時はイスラエル人は家族で住むことができた。しかしローマ帝国の奴隷は個人一人一人がコーヒーカップのような財産に過ぎない。だからいじめられたり大変な状態になったりする。奴隷は人間以下である。パウロは主人たちに、奴隷をそのようにみてはいけないと言う。キリストにあっては奴隷も自由人もない。この教えによって、パウロは、主人も自由にして、奴隷たちも自由にするのである。同じ神様に創造されて、同じイエス様に仕える兄弟であるという思いを持って一緒に歩むならば、社会的な地位が違っても、心の話はそれとは全く違う。あの人は単なる物で私の財産だという目で奴隷を見ないで、主にある兄弟として奴隷を見る。この考え方が長く続いて教会が増えていくならば、奴隷制度は自然に消えてしまうしかない。パウロは長い目で奴隷制度をなくす土台を築きあげているのである。

私たちが毎週の礼拝で聖餐をいただく時に、自分たちは罪の奴隷であるという認識を持つ。イエス様が私たちを奴隷の家から連れ出して、私たちの代わりに受けるべきさばきを受けてくださり、罪に対して死に対して勝利して、自由を与えてくださった。その自由は本当の神様を心から礼拝し、神様を信じて神様の命令に従って歩む自由であり、自分の欲に従って歩む自由ではない。神様が私たちに自由を与えてくださったのは、私たちが罪の奴隷である人を憐れんで福音を伝えるためである。私たちの周りのイエス様を知らない人たちは罪の奴隷で、神のさばきの下にある。私たちがその人たちに自由の光を照らすことができるためである。その自由を喜び、主イエス・キリストの恵みを感謝して一緒に聖餐を受ける。




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