説教者:ベンゼデク・スミス牧師
イザヤ1:10〜18
聞け。ソドムの首領たちよ、主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民よ、わたしたちの神のみおしえに。
「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。
ーー主は言われるーー
わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の招集ーーわたしは不義と、きよめの集会に耐えられない。
あなたがたの新月の祭りや礼祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。
あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのはやめよ。
善をなすことを習い、公正を求め、虐げるものを正し、みなしご正しくさばき、やもめを弁護せよ。」
「さあ、来たれ。論じ会おう。
ーー主は言われるーー
たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
イザヤはどの時代の人物だったでしょうか。彼はダビデの250年後、ダニエルの100年前の人物です。当時のイスラエルは北と南の王国に分かれていました。その中でイザヤは南ユダのウジヤ王からヒゼキヤ王までの時代に預言していました。
北イスラエルは最初から偶像礼拝を行っていました。自分たちが作った偶像もあるし周りの国々の偶像も礼拝していました。一方、南ユダはモーセ、ダビデ、ソロモンが作った礼拝制度を続けて守っていました。彼らの王はエルサレムにいて、ダビデの家系で、ソロモンが建てた神殿もそこにありました。南ユダの人々は北イスラエルとは全然違うアイデンティティをもっていました。自分たちには神殿があり、ダビデの子孫に支配され、祭司はツァドクの家系で、神が選んだ場所でいけにえをささげていました。南ユダの人々には、自分たちは神の忠実な民だという思いがありました。では神は彼らをどう見ていたのでしょうか。
【イザヤ1:10】聞け。ソドムの首領たちよ、主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民よ、わたしたちの神のみおしえに。
神様が実際に話している相手は南ユダですが、ソドム、ゴモラと言われてショックでした。自分たちはそんな風に見られていたのか。
【イザヤ1:11〜14】「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。
ーー主は言われるーー
わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の招集ーーわたしは不義と、きよめの集会に耐えられない。
あなたがたの新月の祭りや礼祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。
聖書は神の霊感によって書かれているのですが、イザヤはことばの強い預言者だと思ってしまいます。
南ユダの人々が神殿に来て礼拝しても、神様はそれを忌み嫌います。なぜなら南ユダの人々は神にささげ物をしながら罪を犯していたからです。腐敗が蔓延していて、裁判所は賄賂をもらうし、組織的に犯罪を犯していて、権力者が人殺しで盗人でした。だれもやもめやみなしごを守りません。
【イザヤ1:15】あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
南ユダの人々は、自分の兄弟の血が自分の手についているのに、それを洗わずに神様のところに来ていたのです。それを神様は受け入れません。ある意味でカインとアベルに戻ります。では南ユダはどうすればよいのでしょうか。
【イザヤ1:16〜17】洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのはやめよ。
善をなすことを習い、公正を求め、虐げるものを正し、みなしご正しくさばき、やもめを弁護せよ。
つまり、悔い改めて自分の心と行いを変えなさい、ということです。
じつは、歴史の中で、多くのクリスチャンは似たような誤解をします。「そうか。神様は形を憎んでいるから、組織を喜ばず、いけにえも喜ばないのか。それなら神殿も祭司もいらないではないか。いけにえも祭りもいらないではないか。」と誤解します。そして「自分の心を清めるために形をなくそう。」と思ってしまいました。じつはキリスト教の歴史でこれは何度も繰り返されています。中世ではこのような傾向の集会や修道会が行われていましたし、宗教改革の時代にはアナバプテストや兄弟団もその発想でした。まず組織をなくし、牧師や司祭もなくそう。私たちの関係は兄弟だけであるから。」というものです。その百年後にはピューリタンやクエーカーも教会の中の目に映るものを全てなくそうとしました。教会の中は質素で、礼拝も質素で、牧師の服も真っ白で、すべての形をなくしました。その後、18~19世紀になると、クリスチャンがもっと熱心になろうとする大きな運動、大覚醒運動(great awakening)が起こり、英語圏で熱心に行われました。その時も心に集中する改心が広まっていました。20世紀の日本では無教会主義が広まりました。現代では、組織化された宗教を好まず、自分とキリストの関係を保つことがキリストを愛することなので、清くなるために形を捨てなければならないと考える人がいます。形がなければ権力やステータスの誘惑から逃げることができるからです。例えば教団によってはクリスマスは祭りだから神様は喜ばないから祝わないとか、教会堂を持たないとか、集会はするが教会という名前は使わないとか、導く人はいるけど牧師とは呼ばないとか、このようにして形を避ける傾向があります。
しかしこの考え方は的から外れています。自分の心を清めて、悔い改めて、行いを変えると、神様は喜んでいけにえを受け入れてくださるのです。
【マタイ5:23~24】ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
つまり、神様はささげ物はいらないから、兄弟のところに行って仲直りをして心を清めて、いけにえを捨てなさい、と言っているのではありません。清い心をもって神殿に来てささげ物を献げなさいと言っているのです。これがイエス様の教えなのです。
では、私たちが心を清めるにはどうすればよいのでしょうか。教会に来る時に、礼拝の最初に罪の悔い改めがあって、説教があってみことばがあって、聖餐式の前にも罪を悔い改める時間があります。それがいけにえを献げるときです。
みんなが教会に来るのは素晴らしいが、もしかしたら神様は私たちの礼拝を喜ばず、受け入れてくれないかもしれない。神様に受け入れられる礼拝をささげるためにそこで悔い改めなければなりません。
【詩篇32:3〜4】私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききったからです。
私たちが自分の罪を悔い改めないと、その結果として必ず呪いが来ます。罪は自分の中で病気のように増え広がって、告白していない罪を隠して黙っているときに、徐々に自分の力を奪っていきます。日常的な良いものを喜べなくなります。働くことや食べること、家族や兄弟姉妹との時間が喜びではなくなるのです。それに耐えるために別のものに走っていきます。代わりになる快楽がほしいと思って、アルコール、飲み会、パーティー、ゲームなど別のものが必要になって、それにしがみついて、喜びに近づけるようにしたいのです。ゲームや音楽や飲み会は良いものなのですが、他のものの代わりにはなりません。
この詩篇のことばはダビデのことばです。ダビデは姦淫を犯して人を殺しても長い間黙っていました。罪を告白しないで悔い改めませんでした。その間ダビデはどうしていたのでしょうか。自分が盗み取った喜びを味わって楽しんでいたでしょうか。決してそんなことはありませんでした。このように昼も夜も苦しんでいました。私たちも罪を告白しないでいると、罪悪が増えて惨めになります。私たちはみんな罪人です。そしてみんな告白しなければいけない罪が常にあります。自分の罪はなんだろうと言う人こそ自分の心を見つめて、罪を見つけて告白しなければなりません。罪を無視していればそのうち無くなるわけではありません。汗をかいてもからだについているバクテリアを無視すれば臭くならない、ということにはなりません。そのように定期的に神様に洗い清められなければならないのです。
イザヤの箇所をみれば、教会に来るだけでは足りないことは明らかです。毎週教会に来て、歌を歌って、献金をしても、自分の罪は神様から隠れているかもしれません。だから罪の告白の時に、ぼーっとしてただ時間がたつのを待っているのではなくて、自分の罪をその時にちゃんと悔い改めてください。礼拝中に罪を悔い改める時間は数秒しかないのでじつはこれでは足りません。週に一回教会に来て、10秒一回と20秒一回で一週間に30秒だけ悔い改めても全く足りません。だから普段から罪を悔い改める習慣が大切です。それで教会に来た時に、神様にいつも悔い改めているあの罪です、と短く言えるのです。毎日主の祈りを祈る時間を作っているなら、その中で私が人を赦すように私の罪も赦してくださいと祈ります。そのときに、何を赦してほしいのかを具体的に言ってみてほしいのです。十戒を使って自分がどの戒めを破っているかを考えることもできます。
7つの大罪というものがあります。傲慢、妬み、怒り、怠惰、貪欲、色欲、暴食です。
傲慢は、自分がどう見られたいのかを真実より大切にしていることであったり、人の上に立ちたいという願望をもつことです。
貪欲は、お金を愛したり、権力を愛したり、この世を愛することです。
妬みは、兄弟がつまずくときにそれを見て喜んだり、兄弟が喜んでいるときにそれを見て喜ばないこと、また、陰口を言って兄弟を引きずり降ろそうとすることです。
怒りは、兄弟を赦せないことです。
色欲は、性欲に支配されていることです。
暴食は、たくさん食べることではなくて、何を自分の口に入れるか、何を身に着けるのか、こだわりすぎていないか、ということです。
怠惰は、一生懸命働くだけではありません。勉強や仕事のほかにたくさんの責任があります。その責任から逃げてしまってはいけません。家族との時間、神様との時間、自分の霊的な成長を求めているか、ということです。
このように具体的な罪の話をするときに、いつも「なんで牧師は俺のこと(私のこと)をみんなの前で言っているのか」と思われるらしいのですが、ぼくはあなたに話しているのではなくて、自分に話しています。あなたに話しているのは神です。そういう意味で、神様は隣の人に話しているのではなくて、あなたに話しています。私たちは悔い改める習慣ができれば、そして常に自分の目の前に自分の罪があることを認識していれば、その叱責が来たときに素直に受け入れることができます。あるいは、兄弟に罪を告白しなければならない時も素直に告白することができます。そして神様はあなたを赦します。南ユダの人々が正しい礼拝をささげなかった時、彼らは兄弟の血がついた手で神にささげものを献げました。彼らがどうなったかというと、そのうちに彼らは滅ぼされてその神殿が破壊されました。
では私たちが神に告白したらどうなるでしょうか。
【詩篇32:5、1~2】私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにはならず その霊に欺きがない人は。
神様は私たちを赦したいのです。そして清めたいのです。私たちからこの重荷を取り去ってあげたいのです。神様は私たちを常に招いています。
【イザヤ1:18】さあ、来たれ。論じ会おう。 ーー主は言われるーー たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
私たちは清い生活をして弱者を守り、正義と善を行って、自分の罪を悔い改めましょう。そうすれば神様は私たちの祈りを聞いてくださり、そして私たちを受け入れてくださいます。
そしてイエスは私たちに言います。。
「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。ルカ19:9」
Comments