説教者:ベンゼデク・スミス牧師
第二コリント4:13〜5:1
「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
パウロは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めると言います。今日の質問は「目に見えないものは何ですか。」です。どうすれば目に見えないものに目を留めることができるのでしょうか。
私たちは苦しい時にその苦しみ以外のものに目を留めることは難しいものです。例えば、お腹が痛い時にそれ以外のことを考えるのは難しいと思います。お腹がすいている時もお腹に食べ物を入れること以外のことに集中するのが難しくなったりします。同じように私たちのからだや心が苦しい時に、天国に目を留めるのは難しい。あるいは私たちがこの世で成功している時に、または成功に向かっているときに、この世の成功に目を留めながら次の世にそれをつなげることができるでしょうか。
パウロは特にパウロへの迫害がどんどん増えている中でこのコリント人への第二の手紙を書いています。
【第二コリント1:8】兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。
死を目の前にするような経験をしてパウロの視野が広がり、次の世を視野に入れながらこの世を見ています。
【第二コリント4:8〜10】私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
パウロは何かに支えられていました。だからどんなに苦しみを受けていてもどうにか耐えることができていました。
そしてその答えはイエスにありました。
【第二コリント4:11〜12】私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
外なる人が衰えても落胆しないために、目に見えないものに目を留める必要があります。パウロは目に見えないものに目を留めているから目に見えない苦しみを耐え忍ぶことができるのです。
実際にはイエスも天国も目に見えません。目に見えるものはこの世のものです。私たちは罪深くて未熟なので自然にこの世のものに目を留めてしまいます。どのように天に宝を蓄えるかということよりも、この世の富をどのように蓄えるかということに目が向きます。神からの報いよりも人からの名誉を求めたりします。私たちは人の顔や性格に目を留めたり、益を与えてくれる人かどうかに惹かれて、その人の神に対する愛を探しません。私たちは次の二十年、三十年、もしかして四十年くらいは幸せな家庭で心地よい家に住みたい。そこに集中したりします。そして天でイエスが準備してくださる家に永遠の家族とともに住むことを忘れたりします。実際にサタンがエバを誘惑した時にも目の前にあるものにとらわれるように誘惑しました。
【創世記3:6】そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
サタンはイエスにも同じようなことをしようとしました。イエスは四十日間断食していたので空腹で食べ物以外のことを考えることができないはずでした。そのときにサタンはイエスを誘惑しました。
【マタイ4:3〜4】すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
サタンはこの世のもの、目に見えるもの、お腹に入る食べ物に集中しなさいと言いました。しかしイエスは目に見えないみことばを忘れませんでした。
目に見えないものとは、形のないものと思われるかもしれませんが、そうではなくて地上に生きている間は見えないということです。イエスはからだを持っているし、天国も形があります。しかしこの地上にいる間は私たちはそこまで見えていないのです。今は目に見えないということなのです。私たちがこの人生を正しく忠実に希望をもって生きるためには、今目に見えない天国まで届いていないといけないのです。神様はそれを助けるためのものをたくさんくれます。私たちが地上にいても天国が見えるようにしてくださるのです。
その一つが聖礼典です。聖礼典は地上にいる私たちが天に上って天と地をつなげるものです。例えば、イエスのバプテスマの時に天が開かれて、神の御霊が鳩のようにイエスの上に降ってきました。洗礼によって天と地がつながる瞬間です。地上にいても天が見える瞬間です。天から御霊が降りて来て、この地上の人間の内に住んでくださいます。人がこの世にいながら歩く神殿になるのです。洗礼を受けた人を通して神の栄光がこの世に表されます。神殿というより天幕です。
このように聖礼典によって地上で何かが起きているのと同時に天でも何かが起きるのです。地上で人間が何かをしていると、神様が人間を通して地上で働いているということです。
牧師は洗礼のときに「御父、御子、御霊の名によって洗礼を授けます」と言いますが、「私があなたに洗礼を授ける」という意味があります。洗礼は牧師という人間が行いますが、実際には神様がその人を自分のものにして息子として養子にしているのです。地上で教会の一員となりますが、天国でも命の書に名前が書かれます。洗礼で水にぬれますが、それは過去と現在と未来がつながる瞬間でもあります。イエスが死んで復活したように、私たちもイエスとともに死んで復活します。イエスの死と復活は過去で、私たちの死と復活は未来にあります。洗礼の時にそれが全部つながります。目に見えないものですが、それが実際に起きています。それを私たちが見ることができるように、イエスの洗礼のときに天が見えて御霊が鳩のように降って来たのです。
聖餐式の時にも牧師という人間が「これはあなたがたのために与えられるわたしのからだです。わたしを記念してこれを行いなさい。」と言います。これは制定のことばとか聖別のことばと言われています。人間がイエスのことばを話しているのです。そしてここで奇跡が起きます。私たちが天でイエスとともにいるのです。私たちはある意味でまだ地上にいるのに、天にいるイエスが私たちとともにいて下さいます。そして過去はイエスの十字架を記念しながら、未来は私たちがイエスと結婚する宴会を祝うことになっているのです。確かにこの部屋に座っているときには目に見えませんが、私たちが神の御前にいることを信仰の目で見ているのです。
聖礼典以外にも、神様は聖礼典的なものをたくさん与えてくださっています。
ルターとメランヒトンが罪の赦しを聖礼典の一つと数える話を前にしましたが、罪の赦しの宣言の時に牧師が「父と子と聖霊の御名によってあなたの罪の赦しを宣言します。」と言います。地上でつなぐものは天においてもつながれています。だから今私たちは目の前に人がいて罪の赦しの宣言を聞きますが、最後の審判で神様が私たちをさばくときに私たちの罪を赦して義と認めて下さることを、今ここで体験しているのです。その前味を味わっているのです。私たちはそのときに与えられる神の完全な愛と赦しを今も受けることができるので、私たちは恐怖のうちに生きる必要はありません。
みことばも聖礼典的なものです。ルターはある説教でこのようなことを言います。「洗礼は神が人を新しくする聖礼典であり、赦しの宣言も神が人の罪を赦す聖礼典であるように、キリストのことばはキリストが私たちの救いを実現するための聖礼典である」
どのようにみことばに聖礼典の要素があるのかというと、まず聖書は人間が書きました。そして人間が朗読して説教で説明します。それを通してイエス・キリストが語って、私たちの心の内に働いてくださるのです。みことばを通して働く御霊を通して、この世の向こうにある天国を知ることができるのです。みことばがなければ私たちは盲目です。この世以上のものは何か、それがあるかどうかもわかりません。それを見せてくれるのがみことばなのです。今私たちがみことばを受けたときに、これから私たちがあずかる三位一体の神の交わりを体験することができます。じつは、数ヶ月前にポーランド国民カトリック教会の人が教会に来ましたが、その教会には七つの聖礼典があって、そのうちの一つがみことばだそうです。
聖礼典的な要素があるもう一つのものが結婚です。結婚では人間が語ります。男も女も誓います。そして牧師は神と教会の名によって二人が夫婦であることを宣言します。人間が宣言しますが、じつは神が結び合わせているのです。人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません。今起きているのは、地上で二人の人間が夫婦になっていることですが、これは天国にある奥義を表しています。つまり私たちは将来キリストの花嫁となります。花嫁としてキリストと一つになります。それを証言するのが結婚なのです。
神様はいろいろなものを通して私たちに天国を示しています。だから私たちはこの地上で生きながら天を見て、キリストを目の前にして生きることができます。実際に洗礼を受けた私たちは一人一人みんなイエス・キリストが私たちの内に生きていて、私たちも一人一人が生きている聖礼典なのです。
キリスト教だけに聖礼典というものがあります。聖礼典を通してこの世界を見るのはキリスト教にしかない発想です。
宗教によってはこの世にとらわれています。彼らがなぜ祈るのか、なぜいけにえをささげるのかというと、ほしいものを今手に入れるためです。祈るときも、今ここでお金をください、食べ物をください、幸せをください、というものなのです。それを与えるため宗教なのです。彼らの天国や地獄はこの世での行いを操るために存在するものだったりします。
科学も一つの宗教です。テクノロジーを通してあなたの物理的な問題をすべて解決することができるから科学を信じなさい、という誘惑があります。
別の宗教ではこの世から逃げることにとらわれています。天国はこの世から逃げることなのです。すべてが苦しみだから、自分を超越して、自分を失って、自分の欲をなくして、自分の思いをなくして、この世の苦しみから逃げることができるのです。そしてこの世はどうでもよくなってしまいます。
しかしキリスト教ではこの世にとらわれず、同時にこの世がどうでもいいとも思いません。なぜイエスがこの世を救うかというと、この世を愛して、天と地が結婚という愛で結び合わされるために救うのです。このからだは大切なのですが、天幕として一時的に使うテントとして大切なのです。だから私たちはこのからだにしがみつくのではなくて、そのうちに使い切って、永遠の霊のからだを受け継ぐために働きます。イエスが神から受けたように私たちも受けるのです。この地上が天とつながっていて、私たちは地上を超えて天を見つめながら生きる必要があるということを、イエスは十二歳から知っていました。
イエスが十二歳のとき、神殿の中で何日間も残っていて、父ヨセフと母マリヤが探しに来た時に、イエスはこう言いました。
【ルカ2:49】すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
イエスはすでに自分の父は天の父であること、もちろん地上にも父と母はいるけれどそれは一時的なもので、天の父を目の前にして生きていました。今日の福音書の朗読の箇所を見ても同じことが書いてあります。
【マルコ3:33〜35】すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
イエスはすでに自分の永遠の家族を意識しながらそれに沿って生きていました。私たちは聖餐式を受けるときに、目に見えない永遠の家族が目に見えます。皆さんの周りにいます。私たちも聖餐式を通して、この婚礼の宴会を通してイエスと一つになります。イエスと一つなら、神は私たちの父です。そして私たちはみんな兄弟です。
【第二コリント4:17】私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
それで私たちが落胆せずに永遠のものに目を留めるために、神様はこのようないろいろなものを与えてくださいます。洗礼式も聖餐式もみことばも罪の赦しも結婚も。
だから私たちは毎週教会に来ることが大切なのです。私たちがみことばと聖礼典を通してイエスを聞いて味わうことができます。それで私たちは天に上って目に見えないものを見ることができます。礼拝の後、地上に戻って日々の生活に戻った時に、天に目を留めながら生きることができます。
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